執着の五蘊(Upādānakkhandhā:執着の集まり)
相応部(Saṁyutta Nikāya) — カンダヴァーラ章(Khandhavāra Vagga) 第10話 プンナマ・スッタ(Puṇṇama Sutta) (五蘊が条件に依存して生起する――すなわちサンカーラ(saṅkhāra)であることを示す抜粋)
五蘊の生起について
「尊師よ、色蘊(rūpa-kkhandha:色・物質的側面)、受蘊(vedanā-kkhandha:感受)、想蘊(saññā-kkhandha:知覚・表象)、行蘊(saṅkhāra-kkhandha:諸行・心的構成)、識蘊(viññāṇa-kkhandha:識・知覚作用)が生じる原因と条件とは何でしょうか。」
尊師(ブッダ)は答えられた:
- 「比丘よ、**四大(mahā-bhūta-rūpa:地・水・火・風という物質の要素)**が、色蘊(rūpa-kkhandha:条件によって構成される色法)の生起の原因・条件であり、これもサンカーラ(saṅkhāra:条件によって構成される諸現象)である。
- 接触(phassa)が、受蘊(vedanā-kkhandha:感受)の生起の原因・条件であり、受蘊もサンカーラである。
- 接触(phassa)が、想蘊(saññā-kkhandha:認識・表象)の生起の原因・条件であり、想蘊もサンカーラである。
- 接触(phassa)が、行蘊(saṅkhāra-kkhandha:色・受・想・識以外のすべての心的形成)の生起の原因・条件であり、それもまたサンカーラである。
- 名色(nāma-rūpa:心的要素と物質的要素の結合)が、識蘊(viññāṇa-kkhandha:感覚に依存して生じる識)の生起の原因・条件であり、識蘊もサンカーラである。」
(要旨:五蘊はいずれも条件に依存して生起する「条件づけられた構成物(saṅkhāra)」であることを明示している。)
我見(Sakkāya-diṭṭhi:自己恒常観)の消滅について
「尊師よ、我見(sakkāya-diṭṭhi)はどのように滅するのでしょうか。」
ブッダは言われた: 「比丘よ、このダンマと律において、アリヤ弟子(ariyan:高潔な修行者)――聞いている者、聖なる者を見た者、尊きダンマに巧みな者、良き人物(sappurisa)に会い、その教えに通じている者――は、次のように見ることをしない。
- 色(rūpa)を『自己』と見ない。
- 自分が色を所有すると見ない。
- 色が自己の内部にあると見ない。
- 自己が色の内部にあると見ない。
同様に、受(vedanā)、想(saññā)、行(saṅkhārā)、識(viññāṇa)についても、 それらを自己と見ず、自己の所有物と見ず、自己の内にあるものとも見ず、自己がそれらの内にあるとも見ない。
このようにして、我見(sakkāya-diṭṭhi)は滅するのだ。」
(要点:五蘊に対する「これが私である/私のものだ」という同一視をやめることで、自己恒常観は消える。)
浄化(Āsava:煩悩の流出)の終焉について
(パーリ正典 王版/巻23 抜粋)
ブッダは語られた: 「比丘たちよ、煩悩の破滅(āsavāの滅)は、第一禅(jhāna)によって起こる場合もあるし、第二・第三・第四の禅によって起こる場合もある。あるいは無辺処(ākāsānañcāyatana)などの境地、または非有非無定(nevasaññā-nāsaññāyatana)などを経て生じることもある。
比丘よ、『煩悩の終焉は第一禅によって起こりうる』と私が言うとき、それは何に基づくのか。
このダンマと律のもとで、感覚的快楽から離れた比丘が、第一禅に入って安住する。
そのまさにその第一禅の中で、彼は現れている現象――色(rūpa)、受(vedanā)、想(saññā)、行(saṅkhārā)、識(viññāṇa)――を次のように観察する:
- 無常(anicca)、
- 苦(dukkha)、
- 病(rogā)、
- 腫(puska)に喩えられるもの、
- 矢のような苦痛、
- 悲惨(dukkha)、
- 悩み(soka)、
- 異質(para)、
- 衰滅する(vipariṇāma)、
- 空(suññatā)、
- 無我(anattā)。
彼はこれらの真理に心を定める。 そして心を非死(amata-dhātu:死なざる領域)へと向かわせ、思う――『これが平静であり、崇高である。すべてのサンカーラの静止、執着の放棄、渇愛の破壊、無関心、滅、ニッバーナである』と。
第一禅に留まることで、彼は煩悩の完全な破滅に到ることができる。もしこの生において完全な煩悩の破滅に達しないならば、彼はその境界において自然に生じ(opapātika:即生)、そこで最終的なニッバーナを得て、この世界へは戻らない――というのは、五つの下位の煩悩(orambhāgiya-saṃyojana)が、その歓喜と確信によって消滅しているからである。
ブッダは例えを持って結んだ。 『熟練の弓手や見習いが、長く訓練した末に遠くへ正確に矢を射ることができ、大きな的を砕くように、第一禅に入った比丘は色・受・想・行・識を無常・苦・空・無我として観じ、そして心を非死に向ける。そうした比丘は煩悩の終わりに達するか、もしこの生で達しないならば、より高き境界に生じて最終ニッバーナを得る。』」
(要約:禅定(特に初禅)における深い観察によって、五蘊を無常・苦・空・無我として直接に見抜くことができれば、煩悩(āsavā)は滅尽し、あるいは高次の生においてその完成に至ると教えている。)
必要であれば、
- 上記の日本語訳を より文語的・注釈付き(経典注釈風) に整える、
- 各パーリ原文(ラテン転写)と対照表を付す、
- 五蘊と縁起(paṭiccasamuppāda)との図解を作る、 など対応いたします。どれをご希望か指示ください。