The_End_of_Doubt3

前書き(Preface) この書は、仏法(Dhamma:ダンマ/法)の核心―― すなわち、ブッダの教えの真髄――を明らかにし、 長きにわたって続いてきた誤解を正すために書かれたものである。

それらの誤解は、真理を真剣に求める多くの人々の心に、 疑いとためらいを生じさせ続けてきた。

とりわけ、「心(citta:心・知る働き)」「心所(cetasika:心に随う諸要素)」「識(viññāṇa:意識・識別知)」「諸行(saṅkhāra:条件により構成された一切の現象)」といった 重要なパーリ語がしばしば誤って解釈されてきた。

その結果、五蘊(khandha:五つの集まり)や、 縁起(paṭiccasamuppāda:因縁による生起)の理解は、 次第にブッダの本来の意図から逸れてしまった。

本書が、ささやかな灯火として、 読者がダンマをあるがままに見るための一助となることを、著者は願っている。

すなわち、 一切のものは因と縁によって生じること、 いかなるものも、永遠不変の自己として存在しないこと。

この真理が理解されるとき、 疑いと不確かさは自然に消え去り、 その代わりに、揺らぐことのない確信と、 穏やかで静かな信(saddhā:信頼)が ブッダの教えに対して起こってくる。

本書が、 真理を心から求めるすべての人々にとって、 何らかの助けとなりますように。

―― 著者

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導入(Introduction) ブッダが悟り(bodhi)を成就されたとき、 ひとつの深い真理が明らかになった。

それは、 生命は神なる創造主によって造られたのでもなく、 永遠の魂によって支えられているのでもなく、 ただただ、 あらゆるものを構成し・条件づける 因と縁の集まりとして成り立っている、 という真理である。

この真理を理解することこそ、 ダンマ全体をつかむことの中心である。

しかし時代を経る中で、いくつかのパーリ語は 誤訳されたり、誤った仕方で説明されたりしてきた。 そのため、多くの人々が本来の意味から 外れてしまう結果となった。

たとえば「サンカーラ(saṅkhāra)」は、 単なる「心の形成作用」や「意志」だけを意味すると 思われてしまうことが多い。

また「識(viññāṇa)」は、 死後もさまよい続ける不滅の魂や霊のように 誤解されることがしばしばある。

こうした誤解のために、 五蘊(khandha)と縁起(paṭiccasamuppāda)に対する理解は、 ブッダの本来の意図から逸れてしまった。

本書は、これらの本質的な用語を、 五蘊と縁起との関係の中で整理し直し、 あるがままに見えるように提示するものである。

そのような正しい理解を通して、 修行の道を妨げ、心を曇らせる 疑い(vicikicchā)は払いのけられる。

疑いが滅するとき、 信は揺るぎないものとなり、 信が確立するとき、 苦の終わりへと通じる道が、 自然と目の前に開かれてくる。

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第1章 サンカーラを正しく理解すること (Understanding Saṅkhāra Rightly)

「一切のサンカーラ(saṅkhāra:条件によって構成された諸現象)は無常である。 一切のサンカーラは苦である。 一切のダンマ(dhamma:諸法)は無我である。」 ―― アナッタラクカナ・スッタ(Anattalakkhaṇa Sutta, S.22.59)

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  • なぜ「サンカーラ」を正しく理解しなければならないのか

「サンカーラ(saṅkhāra)」は、 ブッダの教えの中でも最重要語の一つである。

もしこの語を少しでも誤解すれば、 五蘊(khandha)、縁起(paṭiccasamuppāda)、 さらには三相(tilakkhaṇa:無常・苦・無我)の理解までも、 必ずブッダの本来の意図から逸れることになる。

「サンカーラ」とは、 単に「心的活動」や「意志」、「業(kamma)」だけを意味しない。

それは、 因と縁によって条件づけられた一切のもの、 すなわち、条件があってこそ生じるすべての現象を指す。

原因が変われば、それも変わる。 原因が滅すれば、それも滅する。

これこそがサンカーラの本当の意味であり、 「条件づけられたもの」「作られたもの」「構成されたもの」 ということである。

――――――――――――――――――― 2. サンカーラと三相(Tilakkhaṇa)

アナッタラクカナ・スッタにおいて、ブッダはこう宣言された。

「比丘たちよ、色(rūpa)は無常である。 無常なるものは苦である。 苦なるものは無我である……」

そして、無我なるものは 「これは私のものではない。これが私ではない。これが自己ではない」 と、正しい智慧によって観じられるべきである、と。

このスッタは、 サンカーラをあるがままに見ることこそ、 解脱への直接の道であることを示している。

「条件によって生じた一切のものは、必ず無常である」 と真に見るとき、 心は自然に執着をゆるめ、 智慧が自由へと導いていく。

――――――――――――――――――― 3. 「サンカーラ」の意味

パーリ仏教用語辞典(パーリ―タイ正典版)によれば、 「サンカーラ(saṅkhāra)」には次のような意味がある。

  • 因と縁によって構成された一切のもの―― 物質的なダンマ(rūpa-dhamma)であれ、 精神的なダンマ(nāma-dhamma)であれ、 原因と条件から生じる現象。
  • 善悪へと意志を方向づける心の働きで、 意志(cetanā)を中心とする心所過程。

このうち、ブッダの教えの原義に もっとも直接かみ合っているのは、 第一の意味―― 「因と縁によって条件づけられた一切のもの」 という理解である。

それこそが、 イダッパチャヤター(idappaccayatā:此れあるが故に彼れあり、 すなわち条件性の法則を表している。

第二の意味は、 五蘊や道徳的意志の分析上の分類として用いられる より限定された用法である。

――――――――――――――――――― 4. 「サンカーラ」の語源

サンカーラ(saṅkhāra)の語源は、 saṃ + khara であり、 「共に」「作る・なす」という意味である。

したがって文字通りには、 「共に作られたもの」「寄せ集められたもの」 という意味になる。

つまりサンカーラは、 単なる「心的構成」だけでなく、 因と縁によって生じ、しばらく存続し、 条件が尽きれば滅する、 あらゆる現象を指すのである。

――――――――――――――――――― 5. サンカーラと条件性の法則

「Imasmiṃ sati idaṃ hoti; imass’ uppādā idaṃ uppajjati; imasmiṃ asati idaṃ na hoti; imassa nirodhā idaṃ nirujjhati.」

「これがあるとき、あれがある。 これが生じるとき、あれが生じる。 これがないとき、あれはない。 これの滅するとき、あれも滅する。」

これはサンカーラを支配する法則―― 一切の現象が条件によって生じ、 独立して存在し得ないことを示す原理である。

たとえば、 眼の接触(cakkhu-samphassa)が生じるには、 次の三つの条件が必要である。

・眼(cakkhu) ・可視の対象(rūpa) ・眼識(cakkhu-viññāṇa)

これら三つがそろって初めて、 接触(phassa)が生じる。

接触から、感受(vedanā)が生じる―― 心地よい、苦しい、あるいは中立の感覚。

これが、 諸ダンマがどのように条件によって構成されているかの一例である。

そこに「知る者」が 条件の外側に存在しているわけではない。 あるのは、 ただ縁起としての自然なプロセスだけである。

――――――――――――――――――― 6. サンカーラと三相(Tilakkhaṇa)

すべてのものが因と縁の結びつきによって 生じていることを真に見るとき、 次のことが直接に理解される。

・無常(anicca)―― 条件に依存するものは必ず変化する。

・苦(dukkha)―― 無常なるものに執着すれば、必ず苦を生む。

・無我(anattā)―― それらを自分の思うままに支配できず、 「これが私である」とは言えない。

ブッダはこう宣言された。

「sabbe dhammā saṅkhatā」 ――「一切のダンマは、条件づけられたものである。」

サンカーラを正しく理解するとき、 あらゆる現象における 生起と滅尽のメカニズムが見え始める。

そして、次の真理が分かってくる。

「あるものを生じさせたくないなら、 その原因を取り除けばよい。

あるものを育てたいなら、 それを支える原因を育てればよい。」

これがサンカーラを見る智慧であり、 ダンマをあるがままに見る智慧であり、 無明の輪から抜け出していく智慧の始まりである。

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第2章 生と死の輪(Saṃsāra-vatta) (The Cycle of Birth and Death)

「avijjāpaccayā saṅkhārā; saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ; viññāṇapaccayā nāma-rūpaṃ…」 ―― マハーニダーナ・スッタ(Mahānidāna Sutta, DN 15)

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  • いのちの性質

この世の一切のものは、その性質から見て、 大きく二つに分けることができる。

すなわち、 生きているものと、生きていないもの。

生きていないものは「色(rūpa)」、 すなわち物質であり、 それに対応する「名(nāma)」を伴わない。

それは感受も、知覚も、気づきも持たない―― 地・水・火・風のようなもの。

一方、生きているものとは、 「心を伴う色(nāma を伴う rūpa)」であり、

すなわち感受(vedanā)、 想い・表象(saññā)、 意志(cetanā)、 接触(phassa)、 作意・注意(manasikāra) といった要素を備えた「名」が 「色」と結びついたものを指す。

マハーニダーナ・スッタにおいて ブッダはこう述べられる。

「vedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāro ― etaṃ nāmaṃ; cattāro ca mahābhūtā, catunnañca mahābhūtānaṃ upādāya rūpaṃ rūpaṃ.」

――「感受・想・意志・接触・作意、これを『名(nāma)』と呼ぶ。 四大種と、その四大に依存して生じた色法、それを『色(rūpa)』と呼ぶ。」

名と色(nāma-rūpa)が結びつくとき、 いのちが現れる。

色が滅し、心が滅するとき、 「いのち」もまた滅する。

――――――――――――――――――― 2. 名と色の条件づけとしての「いのち」

私たちが「いのち」あるいは「自分」と呼んでいるものは、 実のところ、 名と色(nāma-rūpa)が一時的に結合した状態にすぎない。

心が色の中にとどまっているとき、 私たちは「生がある」と言い、

色が崩れ、心がその支えを失うとき、 心はその自らの因果の力によって、 別の寄りどころを求めて動いていく。

こうして、生と死は 「人」や「霊魂」の旅ではなく、 ただ名色(nāma-rūpa)の流れが 因果の法則にしたがって移り変わっていく プロセスにすぎない。

――――――――――――――――――― 3. 生存の輪(Saṃsāra-vatta)

人間・天界・畜生・餓鬼・地獄―― あらゆる生存形態は、 生起と滅尽の輪の中を止むことなく巡っている。

「生まれると、老い、病み、そして死ぬ。 死んでは、過去の業(kamma)の力によって 再び生まれ、

ときに高く、ときに低く、 始まりも終わりも見いだせない川のように 流転していく。」

「生命」とは固定した存在ではなく、 条件づけられたプロセスの流れにほかならない。

渇愛(taṇhā)と無明(avijjā)が わずかでも残っているかぎり、 この輪(saṃsāra-vatta)は終わることがない。

――――――――――――――――――― 4. 無明と執着

接触(phassa)と感受(vedanā)があるがゆえに、 私たちはつかみ、しがみつく。

なぜなら、 まだ物事をあるがままに見ていないからである。

形あるものを見たとき、 「これは私だ。これは私のものだ。」 という観念に執着する。

快・不快の感受を経験するとき、 それを「私の感覚」として抱え込む。

ブッダはこう述べられる。

「比丘たちよ、色は無常である…… そして、苦なるものは無我である。」

執着から、渇愛(taṇhā)が生じる。

・有への渇愛(bhava-taṇhā) ・非有への渇愛(vibhava-taṇhā) ・感官的欲望への渇愛(kāma-taṇhā)

渇愛から求める心が生まれ、 求める心から「有(bhava)」、 そして有から再び「生(jāti)」が起こる。

――――――――――――――――――― 5. 輪廻(saṃsāra)と縁起(paṭiccasamuppāda)

ブッダはこう宣言された。

「avijjāpaccayā saṅkhārā, saṅkhārapaccayā viññāṇaṃ, viññāṇapaccayā nāma-rūpaṃ, nāma-rūpapaccayā saḷāyatanaṃ…」

無明(avijjā)があるがゆえに、 諸行(saṅkhārā)が生じ、

諸行があるがゆえに、 識(viññāṇa)が生じる。

識があるがゆえに、 名色(nāma-rūpa)が生じ、

名色があるがゆえに、 六処(saḷāyatana:六つの感覚領域)が生じる。

六処から接触(phassa)が生じ、 接触から感受(vedanā)が生じ、 感受から渇愛(taṇhā)が生じ、 渇愛から取(upādāna)が生じ、 取から有(bhava)が生じ、 有から生(jāti)が生じ、 そこから老いと死(jarāmaraṇa)が展開する。

これが存在の輪(saṃsāra)であり、 始まりも創造主も、 輪の中を移動する「自己」もなく、 ただ無明に支えられた条件の連続だけがある。

無明が滅するとき、諸行は滅し、 諸行が滅するとき、識は滅し、 識が滅するとき、名色は滅し、 名色が滅するとき、 「有」の連鎖は終わりを迎える。

これを vivaṭṭa(ヴィヴァッタ:輪廻からの反転・離脱 と呼ぶ。

――――――――――――――――――― 6. 智慧をもって輪を観る

この教えを学ぶというのは、 単に暗記することではなく、 直接に見ることである。

「あらゆるものが条件によって生じる」 と見えるとき、 もはやこの生死の輪の中に 「私」という何者かを探さなくなる。

邪見が薄れるにつれ、疑いは消える。 疑いが消えるにつれ、信は堅固となる。 信が確立するとき、 解脱への道は開かれてくる。

「Imasmiṃ sati idaṃ hoti, imass’ uppādā idaṃ uppajjati.」

――「これがあるとき、あれがある。 これが生じるとき、あれが生じる。」

この輪を智慧をもって観る者は、 もはや「誰が生まれ変わるのか?」と問わない。

そこには輪の中を動き回る「存在者」はおらず、 ただ条件が起こり、滅しつづけているだけであることが はっきりと見えるからである。

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第3章 識・心・心所 (Consciousness, Mind, and Mental Factors) ―― Viññāṇa, Citta, Cetasika

「viññāṇapaccayā nāma-rūpaṃ, nāma-rūpapaccayā viññāṇaṃ.」 ―― マハーニダーナ・スッタ(DN 15)

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  • 識(viññāṇa)とは何か

「ヴィニャーナ(viññāṇa)」という語は、 「識別して知るもの」を意味する。

すなわち、特定の感覚基盤(āyatana)に依存して 生じる「知る働き」である。

パーリ経典の中でブッダは、 識(viññāṇa)を 六つの感覚門(saḷāyatana)に依存して起こる 「知る働き」として説明されている。

・眼識(cakkhu-viññāṇa:眼による知覚) ・耳識(sota-viññāṇa:耳による知覚) ・鼻識(ghāna-viññāṇa:鼻による知覚) ・舌識(jivhā-viññāṇa:舌による知覚) ・身識(kāya-viññāṇa:身による知覚) ・意識(mano-viññāṇa:心による知覚)

したがって、 識(viññāṇa)は固定した「心」でもなければ、 生から生へとさまよう「魂」ではない。

それはただ、 条件に依存して一瞬一瞬に生じては滅する 「知るプロセス」にすぎない。

眼と色が結びつくとき、眼識が生じ、 条件が離れるとき、その識は滅する。

いかなる識も、その支えとなる条件を超えて 存続することはない。 すべては一瞬ごとに生じ、 一瞬ごとに滅しているのである。

――――――――――――――――――― 2. 識(viññāṇa)と名色(nāma-rūpa)の関係

ブッダはこう宣言された。

「viññāṇapaccayā nāma-rūpaṃ, nāma-rūpapaccayā viññāṇaṃ.」

――「識を条件として名色があり、 名色を条件として識がある。」

これは両者の相互依存―― どちらも片方なしには存在しないことを示している。

識は「知る働き」を提供し、 名色(nāma-rūpa)は その知が働く「場」として機能する。

――――――――――――――――――― 3. 心(citta)とは何か

「チッタ(citta)」という語は、 文字どおりには「知るもの」「心の働き」を意味する。

それは対象(ārammaṇa)を認識する 心のプロセスである。

心(citta)は「自我」でも、 永続する主体でもない。

それは、 対象が来て・知ることが起こり・滅していく 一つ一つの「イベント」である。

「cittaṃ aniccaṃ, uppāda-vaya-dhammaṃ.」 ――「心は無常であり、生起と滅尽を本性とする。」

対象が感覚基盤に触れるとき、心は生じ、 条件が尽きるとき、即座に滅する。

そこに「元々の心」が不変の形で 残っているわけではない。

したがって、 心(citta)は「私の所有物」ではなく、 ただ因と縁によってその都度現れては消える、 自然の現象にすぎない。

――――――――――――――――――― 4. 心所(cetasika)とは何か

「チェータシカ(cetasika)」とは 「心と共に生じるもの」を意味する。

それは、心(citta)とともに起こり、 その性格や善悪の色合いを決定する 精神的な要素である。

心所は心を彩り、 心を善くしたり・悪くしたり・中立にしたりし、 認識過程の中で それぞれ特有の役割を果たす。

心が対象を知るとき、 「どのように知るか」を規定するのが心所である。

たとえば:

・感受(vedanā:快・苦・不苦不楽) ・想(saññā:認識・表象) ・意志(cetanā:志向・意図) ・作意(manasikāra:注意・向けられた心)

さらに、信(saddhā)、 慈(mettā)、貪り(lobha)、怒り(dosa)、 迷い(moha)など多数がある。

経典にはこう述べられている。

「cetasikā cittasampayuttā, cittanissitā, cittānupavattinī.」

――「心所は心と共に生じ、心に依存し、心を巡って展開する。」

したがって、心(citta)と心所(cetasika)は、 常に一緒に生じ、 感覚基盤と識(viññāṇa)に依存して現れる 分かちがたいプロセスである。

――――――――――――――――――― 5. 識・心・心所の関係

識(viññāṇa)、心(citta)、心所(cetasika)は、 いずれも「知る」という同じプロセスの 異なる側面を指している。

  • 識(viññāṇa):  感覚門を通して知る働き。  名色に依存して生じる。
  • 心(citta):  対象を知る中心的な「ひとまとまりの心」。  すばやく生じて滅する。
  • 心所(cetasika):  心と共に生じる諸性質。  心の善悪・感情・傾向を規定する。

これらはどれも「自己」ではない。

すべては条件づけられた現象―― 因と縁によって一瞬生じ、 一瞬存在し、 また滅していくプロセスである。

――――――――――――――――――― 6. 結びの省察

識(viññāṇa)、心(citta)、心所(cetasika)を 正しく理解するとき、 ダンマに対する疑いは自然に薄れていく。

なぜなら、 一切はただプロセスであり、 条件づけられたもの、無常なもの、無我のものである、 ということがはっきりと見えてくるからである。

ここにあるのは、 「ダンマがダンマを知っている」だけであり、 独立した「知る者」は見いだされない。

これが直接に見えるとき、 ブッダの教えに対するためらいと疑いは、 完全に終わりを迎える。

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第4章 智慧によって学ぶこと (Paññā-sikkhā ― パンニャーによる学び)

「Yo dhammaṃ passati so maṃ passati.」 ――「ダンマを見る者は、わたし(ブッダ)を見る。」 (相応部 Saṃyutta Nikāya 22.87)

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  • なぜ智慧によって学ばねばならないのか

多くの人はダンマを学ぶとき、 教えを暗記しようと努めるが、 実際に「見ている」人は少ない。

ブッダはこう言われた。

「ただ唱えるだけでは、智慧とは言えない。」

パンニャー(paññā:智慧)とは、 知識の蓄積ではなく、 物事をあるがままに見ること(yathābhūtañāṇadassana)である。

一切の現象が条件によって生じ、 無常であり、苦であり、無我である、 ということを直接に知ることである。

智慧がこのように明瞭に見るとき、 疑いは自然に止む。

何もあいまいなものが残らず、 信は揺るぎないものとなり、 実践は安定してくる。

――――――――――――――――――― 2. 智慧(paññā)の意味

「paññā」という語は、 pa + ñā に由来し、 「徹底して知る」「分別をもって知る」 という意味を持つ。

ブッダはこう宣言された。

「Paññā paccayo vipassanāya.」 ――「智慧は、明らかな洞察(vipassanā)の原因である。」

したがってパンニャーとは、 単なる思考や推理ではなく、 物事の真理を貫いて見る 内面的な視野である。

それは、無常・苦・無我を 直接に見通す働きである。

――――――――――――――――――― 3. 智慧の三段階

ブッダは、智慧には三つの段階があると教えられた。

  • スッタマヤ・パンニャー(sutamayapaññā  聞くこと・学ぶことから生じる智慧。  読誦や学習、教えを聞くことによって得られる理解。  まだ外から借りてきた理解の段階。
  • チンターマヤ・パンニャー(cintāmayapaññā  思索と省察から生じる智慧。  自分でよく考え、検討することによって深まる理解。  より個人的だが、まだ思考レベルにとどまる。
  • バーヴァナー・マヤ・パンニャー(bhāvanāmayapaññā  修習・禅定から生じる智慧。  これが最高の形であり、  瞑想・観の実践を通して直接に現れる智慧である。

「Bhāvanāmayā paññā paccayo vipassanāya.」 ――「修習から生じる智慧こそが、真のヴィパッサナーの条件である。」

――――――――――――――――――― 4. 暗記から「見ること」へ

ただダンマを覚えているだけの人は、 なおも信の上で揺れ動くことがある。

なぜなら暗記は言葉に属するものであり、 「見ること」そのものではないからである。

しかし、ダンマを直接に見る人は、 説明に頼らずとも揺るがない。

生起と滅尽を観察し、 感受・想・心が無常であることを観るとき、 ダンマはまさに「今ここ」にある。

「感受するとき、 『感受は無常である』と知る。

認識するとき、 『想は無我である』と知る。

心を観察するとき、 『心は生じては滅する』と知る。」

これが智慧によって学ぶということであり、 記憶によるのではなく、 現在進行形の真理を見て学ぶことである。

――――――――――――――――――― 5. 真の智慧は、知識を増やすのではなく、執着を減らす

真の智慧は、 「知るべきこと」を増やすのではない。

むしろ、「所有している」という妄想を 取り去っていく働きである。

因と縁が明らかに見えるとき、 心はもはや抵抗したり、争ったりしない。

「Yo paññavā so vipassati.」 ――「智慧ある者こそ、本当に見ている者である。」

智慧は概念を増やすのではなく、 ものの見え方を簡素にする。

それは、 錯覚を静かに・自然に解いていく。

――――――――――――――――――― 6. 智慧と疑いの終息

疑いは、 因が見えていないところに生じる。

智慧が、

「これがあるとき、あれがある。 これが滅するとき、あれも滅する。」

という真理を見抜くとき、 心は「なぜ?」と問い続けることをやめる。

「誰が?」「何が?」という問いではなく、 すべての現象はイダッパチャヤター(idappaccayatā: この・ここにおける条件性)に従って 生起・滅尽しているだけだと理解する。

このような理解を 「idappaccayatā に対する智(ñāṇa)」 と呼ぶ。

ここには「知る者」も「見る者」も「自己」もなく、 ただダンマがダンマを知っている。

――――――――――――――――――― 7. 疑いを終わらせる光としての智慧

智慧は、新しい何かを作り出すのではない。

ただ、 もともとそうであったことを照らし出すだけである。

「Yadā paññā udapādi, avijjā nivattati.」 ――「智慧が生じるとき、無明は退く。」

智慧の光が輝くとき、 無明の闇は自然に消え去る。

力づくで押しのける必要はなく、 特別な緊張もいらない。

これは、 信仰を増やしたからではなく、 よりはっきりと「見た」ことによって 疑いが終わるのである。

――――――――――――――――――― 8. 結び

すべての条件づけられたもの(saṅkhārā)が、 因と縁によって生じ、 またその因と縁の滅にしたがって滅することが見えるとき、

「執着に値するものは何もない」 と分かってくる。

そのとき心は静まり、 涼しく、自由になる。

「Nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ.」 ――「ニッバーナ(nibbāna:煩悩の完全な静まり)は、 最高の安らぎである。」

疑いが終わることは、学びの終わりではなく、 本当の実践の始まりである。

疑いが消えるとき、 苦の滅へと通じる道は、 妨げなく開かれている。

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第5章 光り輝く心と有分心 (Pabhassara-citta と Bhavaṅga-citta)

「Pabhassaram idaṃ, bhikkhave, cittaṃ; tañ ca kho āgantukehi upakkilesehi upakkiliṭṭhaṃ.」 ――「比丘たちよ、この心(citta)は本来、光り輝いている。 しかし、外から来た汚れによって汚されている。」 (増支部 Aṅguttara Nikāya 1.11)

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  • 光り輝く心(pabhassara-citta)の意味

「パバッサラ(pabhassara)」とは、 「明るい」「光り輝く」「澄んだ」という意味である。

ブッダは、 「この心は本来、光り輝いている」 と言われた。

これは、 私たちの中に永遠の純粋自我や、 不滅の心がある、という意味ではない。

むしろブッダは、 心が煩悩(kilesa)によって曇らされていないとき、 その本性として、明るく・バランスが取れ・ 開かれて、静かであることを指摘されたのである。

「āgantukehi upakkilesehi upakkiliṭṭhaṃ」―― 「それは、あとから来た汚れによって 一時的に曇らされているだけである。」

無明(avijjā)と渇愛(taṇhā)が生じるとき、 その自然な明るさは覆われる。

しかし煩悩は心そのものではなく、 雲が太陽を覆うように、 一時的に心を覆っているにすぎない。

したがって、光り輝く心は、 新たに「作り出される」ものでも、 「所有する」べき対象でもない。

それはただ、 無明によって暗くされていないときに 自然に現れる気づきの明晰さである。

――――――――――――――――――― 2. 有分心(bhavaṅga-citta)とは何か

アビダンマにおいて、 生命の背景として流れつづける心の流れは、 「バヴァンガ・チッタ(bhavaṅga-citta)」と呼ばれる。

文字どおりには「有(bhava)を維持する心」であり、 存在の連続を保っている意識だと説明される。

「bhavaṃ vaṭṭeti ti bhavaṅgaṃ」 ――「有を回転させているものを、有分と呼ぶ。」

有分心(bhavaṅga-citta)は、 積極的に対象を知っていないときの心の状態―― たとえば深い眠りの最中や、 一つの心の働きと次の心の働きの「すき間」にある状態―― を指す。

それは、 表面が穏やかであれ荒れていようと、 水面の下で静かに流れつづける川の深い流れのようなもの。

この静かな流れが、 一瞬一瞬の生命の連続性を支え、 ある意識過程から次の意識過程へと つないでいる。

――――――――――――――――――― 3. 有分心(bhavaṅga-citta)と結生心(paṭisandhi-citta)

新たな生が始まるとき―― すなわち受胎の瞬間―― 名色(nāma-rūpa)と結びついて 最初に生じる識が、 「パティサンディ・チッタ(paṭisandhi-citta:結生心)」 と呼ばれる。

この最初の識こそが、 その新たな存在における 第一の有分心(bhavaṅga-citta)でもある。

その後、有分心は一生のあいだ 静かに流れつづけ、 その生が終わるときに滅する。

このように、 有分の流れは存在そのものの流れであり、 一つの生と次の生との連続を担う 微細な心の流れである。

――――――――――――――――――― 4. 客来的煩悩(āgantuka-kilesa)

ブッダは、煩悩を「アーガントゥカ(āgantuka)」―― 「外から来たもの」と呼ばれた。

それらは心の本性に 固有のものではない。

煩悩(kilesa)は心の汚れであり、 心を暗くし、かき乱す。

・貪(lobha):欲しがる心、渇き求める心。 ・瞋(dosa):怒り・憎しみ・復讐心――  傷つけたい、壊したいという燃える心。 ・痴(moha):真理が見えない盲目。 ・慢(māna):優越感や驕り。 ・見(diṭṭhi):誤った見解・偏った信念。

特に最後の二つは、 最も深い束縛をもたらす。

・断見(uccheda-diṭṭhi):  死によってすべてが無に帰すると信じる見解。

・常見(sassata-diṭṭhi):  変わることのない永遠の自己があると信じる見解。

どちらも真理を歪める見方であり、 心を無明に縛りつけ、 心そのものも無我(anattā)であるという洞察を 妨げてしまう。

――――――――――――――――――― 5. 有分心を清浄にするとは

有分心(bhavaṅga-citta)は、 一つの生のあいだ、 生じては滅することをくり返している。

「清浄にする」とは、 この流れそのものを壊すことではなく、 そこに伴っている煩悩を 智慧によって洗い清めることを意味する。

心の流れが、 なお輪廻(saṃsāra)に縛られているかどうかを知るために、 未来の生を見る必要はない。

今ここで、 自分の心がどのような状態であるかを 観察すればよい。

煩悩がなお起こるなら、 それらが条件づけられた現象にすぎないことを 深い智慧で見抜かなければならない。

有分心を清浄にするとは、 心を力づくで空っぽにすることではなく、

一切のものが因と縁によって生じ、 因と縁によって滅することを ありありと見ることである。

そのように見えるとき、 心は自然に静まり、 「理解による空(suññatā)」として 軽やかで広々としたものになる。

――――――――――――――――――― 6. 有分心の最後の一瞬

一つの生の終わりにおいて、 最後の有分心(bhavaṅga-citta)が滅する。

もしそのとき、 なお渇愛(taṇhā)が残っているなら、

ただちに新たな識が生じる―― それが次の生の パティサンディ・チッタ(paṭisandhi-citta:結生心)である。

しかし、 渇愛と無明が完全に消え去っているなら、 新たな有分が生じる条件はもはや存在しない。

これを、 有分の滅―― 生命の流れの終息、 輪廻(saṃsāra)の終わり、 ニッバーナの証悟 と呼ぶ。

――――――――――――――――――― 7. 光り輝く心を、執着なく観る

光り輝く心を見るということは、 それを「自己」や「真の本質」として つかむことではない。

輝きさえも、 条件によって生じる。

原因が尽きれば、 それもまた滅する。

「sabbe dhammā anattā」 ――「一切のダンマは無我である。」

たとえ明るく静かな心であっても、 それはなお「法(dhamma)」であり、 自己や永遠の魂ではない。

これが明瞭に見えるとき、 人は「本来清浄の真我」という 微細な執着からも解放される。

彼は、輝きと永遠性とを 混同しなくなる。

こうして、 粗い無明からだけでなく、 「純粋な自己」という洗練された妄想からも 自由になるのである。

――――――――――――――――――― 8. 結び

光り輝く心(pabhassara-citta)と有分心(bhavaṅga-citta)は、 ともに条件づけられた現象の流れにすぎない。

因と縁によって流れ、 因と縁によって変わりつづける。

智慧がこれを直接に見るとき、 理解が生じる。

「心は自己ではなく、 自己もまた心ではない。」

そのとき、疑いは完全に溶ける。

無明が滅するとき、 心は涼しく、明るく、静まる。

それは、何かを付け加えたから輝くのではなく、 覆いが取り除かれたがゆえに あるがままの明るさを現すのである。

これが、煩悩に染まっていない心の 自然な輝き―― 澄みわたり、静まり、自由な心である。

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終章 ダンマにおける疑いの終わり (Epilogue: Saddhā と Paññā ― 見によって生まれる信)

「Yo dhammaṃ passati, so maṃ passati.」 ――「ダンマを見る者は、わたし(ブッダ)を見る。」

ダンマ(Dhamma)は、 哲学体系や抽象理論ではない。

それは、 生そのものの真理であり、 あらゆる気づきの瞬間に 直接経験しうるものである。

本書は、 しばしば混乱や疑いの原因となる 重要な用語と原理を明らかにしようとしてきた。

すなわち、 心(citta)、心所(cetasika)、識(viññāṇa)、サンカーラ(saṅkhāra)、 五蘊(pañcakkhandhā)、 縁起(paṭiccasamuppāda)などである。

これらがあるがままに見えるとき、 次のことが理解される。

・すべてのものは因と縁によって生じる。 ・何一つ、永遠不変ではない。 ・疑いは、誤解からのみ生じる。 ・理解が正しくなるとき、疑いは止む。

疑いの終わりは、学びの終わりではない。

それは、 安定した修行の始まりである。

もはやためらうことのない者は、 苦の終わりへと通じる道を、 振り返ることなく歩んでいくことができる。

もし本書の中で述べられた教えが、 あなたがこれまで信じてきたことと 食い違っているように感じられるなら、 どうか急いで退けないでほしい。

むしろ、 よく省察し、 自らの智慧によって確かめてほしい。

ブッダのダンマは、 単に信じるためではなく、 直接に「見て知る」ために説かれたからである。

カーラーマ経(Kālāma Sutta)において、 ブッダはこう教えられた。

「ただ聞き伝えられたからといって信じてはならない。 ただ伝統として受け継がれてきたからといって信じてはならない。

しかし、自らよく知るようになったとき、 『これらの教えは善く、 有益であり、 苦の滅へと導く』 と理解するなら、

そのとき、はじめて それに従うべきである。」

本書が、真理を求める人々が 理解へと渡っていくための 小さな橋となりますように。

そして理解が生じたなら、 どうか歩みを続けてほしい。

省察と瞑想を通して、 ついには、 疑いも生成も超えた静寂へと 到り着くその時まで。

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今ここでダンマを見ること

ブッダは、 ダンマを遠い場所や隠れた世界に探せとは教えられなかった。

むしろ、 今ここにあるものの中に見よと説かれた。

たとえば、一枚の白い布でも、 真理を示す教師となりうる。

白い布が、 時とともに徐々に汚れ、黒ずんでいくのを見て、 心は直接に理解する―― 外側の汚れは、 内なる煩悩と異ならない、と。

したがって、 心を清めることは ただ世間を離れることにあるのではなく、

自らの心に起こるものを 明瞭に見ていくことにある。

あらゆる瞬間が修行の場であり、 あらゆる接触がダンマの教師である。

真理が、執着なく見られるとき、 心は大地のように動じなくなる。

快にも苦にも、 賞賛にも非難にも、 簡単には揺れない。

そのとき、 貪・瞋・痴は、 その見ることの中で自然に薄れていく。

このように生きる人は、 世の中のただ中にいながらも、 世に呑み込まれない。

その心は空のように自由で、 大地のように涼しく、 雲間から現れる月のように 静かに輝いている。

「比丘たちよ、 心の内なる塵を掃い去った者は、 雲から離れた月のように 光り輝く。」

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疑いの終わり

ダンマは、 「もっと信じなさい」と 私たちに求めているのではない。

「もっとはっきり見なさい」と 呼びかけている。

一切のものが条件から生じ、 何一つ永遠ではなく、 何一つ本当に「私のもの」とは言えないと 理解されるとき、

心は静まる。 疑いは終わる。

そして、 ダンマの涼やかな平安が 自ずから現れてくる。

「Nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ.」 ――「ニッバーナは、最高の安らぎである。」

ダンマが、 真理を求めるすべての人の心にとどまり、 見る目に光を与え、 心に静けさをもたらしますように。